おんな城主 直虎
2017年大河ドラマ「おんな城主 直虎」は浜松が舞台となっています。 女性でありながら、戦国時代の井伊家の事実上の当主を務めた直虎とはどのような人物だったのか、紹介していきたいと思います。
井伊直虎とは
井伊家・家系図
直虎ゆかりの地
井伊直虎が女城主になった背景
嫡流の直盛に嫡男がいない為、従弟の直親と結婚をし井伊家を存続させようとしていました。
ところが、天文13年(1544)小野和泉守道高の讒言(ざんげん)により、今川義元に謀反の疑いを掛けられ直満・直義が自害させられました。
直満の子、直親にも殺害命令が下されたため、直親は渋川の東光寺に逃げ、さらに信州市田郷の松源寺へ逃亡することになりました。
許嫁から引き離された直虎は、龍潭寺にて出家を決意します。 井伊家の宗主の通称「次郎」と「法師」という僧名を組み合わせた「次郎法師」の名を、龍潭寺第2住職、南渓和尚によって与えられました。
弘治元年(1555)直親が信州から帰国し、直盛の養子となり次の宗主の第一候補となります。
永禄3年(1560)直盛が桶狭間で戦死。直親が後を継ぎ、永禄6(1561)直親に待望の男子「直政(虎松)」が生まれます。
永禄5年(1562)小野但馬守道好の讒言により、直親が今川氏真に叛意の疑いをかけられ、弁明に行く途中、今川家の宿老朝比奈泰朝に討たれます。
その後も曾祖父直平や多くの家臣たちが相次ぎ戦死、井伊家の男が幼い虎松(直政)のみとなってしまった為、虎松を守るために次郎法師は還俗し「井伊直虎」と名を変えて「女地頭」となりました。
直虎が生まれてから、女城主になるまでに亡くなった井伊家の男達
天文10(1541)井伊直元、病死
天文11(1542)井伊直宗、討死
天文13(1544)井伊直満・井伊直義、今川義元により誅殺
永禄3(1560)井伊直盛、殉死
永禄5(1562)井伊直親、今川氏真により誅殺
永禄6(1563)井伊直平、急死
永禄6(1563)井伊谷城代・中野信濃守直由、戦死
女城主となってからの直虎
女城主となった直虎が直面したのが、今川氏から出された徳政令でした。
徳政令とは朝廷や幕府が債権者に対し債権放棄を命じた法令であり、この施行を受け入れてしまうと 井伊領の経済が混乱してしまいます。
徳政令を受け入れなければ今川家や領民を敵に回すことになり、受け入れると井伊家の基盤が崩壊し、 領内経営が成り立たないという厳しい状況になってしまいました。
そこで直虎は被害が最小限に抑えられるよう、黒印状(黒印を押して発給した武家文書)を発行するなどの手を打ち、徳政令の施行を2年間引き延ばしましたが、今川の圧力に対抗しきれずに 永禄11年(1568)に遂に徳政令が発布されてしまいます。
結果、直虎は城主の座から追われ、井伊領は小野氏のものになり母の暮らす龍潭寺へ身を寄せることになります。 虎松は鳳来寺へ預けられました。
直虎が城を出て1カ月後、三河の徳川家康が遠江侵攻を開始し、永禄12年(1569)4月に小野道好は徳川方に捕えられて処刑されます。 その後、武田との勢力争いの末、徳川家康は遠江の領有を安定させます。
遠鉄バス[43][44][45]系統「三方原墓園」停留所降りてすぐ
写真提供・浜松情報BOOK
そして、直虎や南渓和尚たちは井伊家を復活させるため、 鳳来寺へ預けていた虎松を呼び寄せ、浜松を居城としていた徳川家康と引き合わせるよう画策します。
家康は15歳の虎松を小姓として迎え入れ、万千代(まんちよ)という名を与え、井伊谷に領地を持つことを許しました。
こうして直虎は、井伊の家名を再興させることができました。
その後、万千代は家康の元で数々の戦で戦功を上げ滅亡の危機に瀕していた井伊家は、 徳川家筆頭、幕末には大老職まで出すような家柄となります。
そして天正10年(1582)8月26日、直虎はその生涯を閉じました。 井伊家菩提寺である龍潭寺にお墓があり、生前結ばれることのなかった直親の隣に祀られています。
晩年に余生を過ごしたとされる寺。直虎の位牌が本堂に安置されています。
遠鉄バス[45]系統「北神」停留所から約120m
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